昭和42年5月22日 朝の御理解


 
 信心を頂いて 力を頂いていかなければならない。
 勿論 神さまを信じさせてもらう力、神様は信ずる者を信ずると仰せになるのでございますから、信じさせてもらう力をいよいよ養っていく、色々の手立てと申しますか、色々の方法があると思うのです。けれども なんといっても私は一番に必要なのは、信心を進めていくのに、抑制と追求ということを云われます、自分を抑制していく、自分を抑えていく力、自分を抑える力、たとえば食べたいから食べる、眠たいから寝る、云いたいから云うと、云いたい放題、食べ放題、し放題といったような そういう事ではもう力を受けるのに、一番の序の口で失敗するようなもんです、これが出来なかったら。どんなに拝んだところでですね、、どんなにあの人は仏様のような人だ、神様のような人だと云う人でも駄目です。
それでは力は受けられません。まず自分を抑制する力、自分を抑える力、本当に云わなければおれないような事があります。そういう時にま、昔から言われていますですね、金光様 金光様と心の中に念じさせてもろうて、腹の立った時でも云いたい時でも、云わんで済むんだと いったように申しますけれど、確かにそういう稽古も必要だと思いますね。眠たいから寝るんだと、いかにもそれが自然のようですけれども、やはり朝の御祈念なら朝の御祈念にお参りをすると、決めさせて頂いたら、ほんとに夕べは休んでおらんから寝たくてもです、そこのところを辛抱する力、例えば信心修行の中に様々な修行がございます。
 この方の行は、火の行や、水の行ではない、家業の行と、家業をおろそかにするような事では、力はやっぱり受けられません。又は、この方の行は火や水の行ではないと 家業の行とおっしゃるのと同時に、表行より心行をせよとおっしゃる。ですから 表行というのは形に表されてくる行、心行というのは、心をもってする修行ですから、心行の初歩のところは、今申しますように、腹が立つ、そういう時にそれを云わんで済むだけの心の中に、心を納めさせてもらうそういうことも心行になりますんでしょう、だから力を受けるはずです。
けれども又 表行は金光様で云うなら軽く見られるような事がございますけれども、二代金光様 四神様は仰っておられます。表行が出来ん者に心行が出来るかと、金光様の御信心は 火の行や水の行はせんでもいいから と云う人がありますけれども、心行というのはです 例えばその火の行 水の行でもいとわないというぐらいの、そのぐらいの修行でも出来るくらいな人でないと出来ないと、だから しちゃならんというのじゃはない。
金光教の信心は表行しちゃならんというのではない。そういう意味では断食行なんかございますね、食物を断つ、これは私はもう人間ですから空腹になれば、食物を欲するのは当たり前ですけれども、それをじっと辛抱し抜いて一週間も十日も辛抱する事によって、力を頂いていこうという人もあります。だからそういう力も必要なんです。
朝参りなんかをなさるには、そういう力を開く為には、一つの方法だと思いますね。同時にこれは私いつも申しますように、日々が自然との対決であると、成り行きの対決である。雨が降っても風が吹いても、その事に負けまいとする働き、そこに一生懸命力んでその事に対決する。これで私はいよいよ力が受けられると思うんですね、自然との対決において、場合によっては負ける事も御座います、けれども、それに負けまいとする 一生懸命の力。私の流儀でいうと、ここんところを大変大事にする事、を解きます、私は。より成り行きを大事にせよというのは、それなんです。成り行きその事を大事にするという事は、ひとつの厳しい言葉で云うなら、常に対決するということなのです。
これは日頃私が解いておりますところでございますから、そういうところによって力を受けられる、自分を抑制する、自分を抑える、いうならば もう辛抱が出来ん、もうこれまで堪忍しとったけども、もうおちん?、誰堪忍は誰でもする?ならぬ堪忍するが真の堪忍 といわれているように、その真の堪忍をする、そういうような事から力を受けるということをいつも申しましたですね。
 次に成り行きを大切にする、いわゆる自然と対決するという事によって、力を受けると申しましたね。
次にです、私は自分をいじめるということと同時に自他共に、自分とは違った自分以外の人、事柄についても祈るということ。
東京の銀座に湯川という先生がおられますね、この方は、玉水のお弟子さんらしゅうございます方が、ちょうど戦争で東京が灰に包まれたときに、自分の所も焼けたんです、銀座ですから そういう時に一番に一生懸命に願われた事はですね、東京の復興だったそうです。又この先生は非常に自分の周囲の事を本気で祈れということをいわれる。もう、一生懸命で東京の復興を願われたんです。みなさんが隣近所のことを願う、自分の町内、自分の市のことを、大きく云うならば天下国家のことでも本気になって願う。そういうたとえ自分以外の事を願うところにです、それが本当の祈りになってくる時に、祈りの力というものを頂けます。祈念力なんですよ、力なんです。湯川先生なんかの場合は東京が復興しだすに従ってですね、銀座に見事な教会が出来て、やっぱり御大祭ともなるとですね、あの銀座の真ん中にトラックで米を運んでくるという程の御比礼を頂いておられるそうですね。どんなに難儀だ、悲しい厳しいという時にでも、御米をトラックで運んでくるそうですよ、郊外から、だからお米は必ずしもね、田舎でなければならんということはないと、東京の銀座の真ん中でも、こんなにお米を集めることが出来るという事を仰られた、という事でございますがね。やっぱりそういう物を集めるという力というものがです、東京の復興を本気で願われるというところから、そういう力が生まれなさったのではなかろうか。銀座の真ん中にトラックで・・?なら・・?を集めなさる力を持っておられるのですよ。ですからなかなか人の事を実感をもって祈る事はなかなか難しい事なんです、それでも祈らないけませんのですよ、それをほんとに祈らせていただく、いわゆる私がいう限りなく美しくならせて頂こうというような事に、精進しながらしていきよりますとね、祈らなければおれんのです。
そういう力を受ける為に、そういう稽古をなさらなければいけません、焦点なしの稽古じゃ何十年信心したって、神さまを信ずる力は何も出来とらん人がありますでしょうが。だから今、私が申したところに焦点をおいてです、辛抱力を頂く、辛抱する力を頂く、祈念の力を頂く、自分たけの事だけではなく、人の事までも祈る力を頂く。自然との対決において、そこに本気で対決するわけなんですね、そこに 力がどうでも必要なのですから、そこにおのずと でてこんわけがないのです。願って、その事はびくともしなくても大きな岩に向かって一生懸命力んでおって、この岩そのもの願い事そのものが、たとえ聞いてはいただかなくても 動かなくても自分の押す方の腕力というものは、力こぶができてくるように、力を頂くもんです。いくら出来たって おかげにはならんと、でなくておかげにならんでも自分の力を頂いていく事は間違いないのです。

 昨日は造営委員会の解散式と同時に、私の教師就任の祝賀会が、原鶴の六峰館で百名以上の方が集まっておられたそうですが、本当に盛大にそれがなされました。ほんとに有難い事だと思います。皆さんが帰られた後四、五人残って初めて私は鵜飼いというのを見せて頂きました。話には筑後川の名物でもあるのですから、聞いておりますけど、実際に鵜飼いの状況を見た事もなければ、船に乗って遊んだ事もございませんでした。しばらくの時間でございましたけれど、それを見せて頂いたんですけれども、何か見ておって可哀相な感じがせんでもないですね、一生懸命もぐってからに、昨日、ちょうど一昨日が解禁だったそうですね。昨日が船の初おろしだったそうです。それで本当にサ―ビス満点でした、そういう中でそういうことを見せていただいたんですけれど、鵜がですね、ずぶってから そら見事ですね、昨日のようにとれた事も、昨日のように船で鮎を腹一杯に食べて頂いた事も初めてです、と言うてから女中さんが言うておられたほどによく鮎が良く取れました。で、このくらい小さい鮎が勿体ないごとあります、もう沢山もうずーっと取り・・?もう 見事です。そして胃でしょうかね、横がふくれるように取ってきますと、それを鵜匠がですね、首を握ってこうはき出させてしまう、そして又入って行く、もうそげんせんということなくなんぼでもなんぼでも繰り返し繰り返し取ってくる、そして繰り返し繰り返し吐きださせる。私それを見せて頂きながら思うんですね、いつかそんな御理解頂いた事あるんですけれども、私共 鵜になれって云う事です。一生懸命神様に喜んで頂けるような働きというか、御用というか、一生懸命させて頂かねばならない。そして、その代償を求めてはならない。一生懸命働いているんだ、一生懸命鵜が人の為に働くように、私共は神様の喜んで下さる為に働けばいいのだと。私は一番の力を受けるということは、これだと思うんです、ね、腹一杯になった時には出さん、又その上から押し込むようにする、だから胃が悪くなる、胃が悪くなるから身体全体が悪くなる、やはり胃は万病の元というのですから、やっぱり悪くなるのです。もう食べ放題に食べてから 、入れてからそれを出すまいとする、それを神様に喜んで頂くために一生懸命我慢する。鵜が人の為に一生懸命働くように私共が、神様の為に、神様のお喜びの為に一生懸命に働く、そんな馬鹿らしい事ないじゃないか、働き損のくたびれもうけじゃないかと、いや決してそうじゃないって。働くことによって働く楽しみ、喜びを頂くだけじゃなくてです、ちょっと、その鵜匠が鵜にはです、丁度必要なだけの食物というものは絶対与えるんです、もう絶対のものなんです、そこに神さまが私どもを信じて下さる働き、いわゆる私どもが神様を信ずるために一生懸命の様々な今日申しました稽古をさせて頂いてですね、おかげを頂いていくと同時に、神様に喜んで頂くという信心をさしてもらう時にです、神様がその氏子を信じなさらんはずがない、ですから、その信心なさる事がです、ね、その人の必要なもの、これは鵜魚だけですけれども、これは人間の場合には、人間の幸に必要なもの、人間幸福になっていく為の必要なもの、それを無尽蔵に 限りなく与えて下さる事が出来るのですよ、これはもう私を手本にして下されば一番だと思います。
 もうほんとにですね、私は例えば、こうしてここでおかげを頂いて沢山の財が集まります。けれども自分の物とは一つも思わんのです。もうこれだけは自分ながら有難いと思うんです、自分の物とは思わんから 自分勝手なこと言ったり、必要以上に使うことは、いよいよ慎まさして頂きます。そして神様に喜んで頂けれるということのためになら、もう一切合切を投げうっても、惜しいとは思いません、もし神様がこれだけ立派な御造営が出来た、勿論私の家では御座いませんけれども私の物というわけにはいきませんけれどもです、ここから又椛目に移れと、ここが神様が必要だと仰るなら、私いつでも、そのことを「はい」といって答えるでしょう。そら一生懸命働きます、働きますから沢山のお金も集まります、けれど神様がそのお金が必要だと仰るなら、いつでも・・?の底からひっくり返して、神様の前に捧げることが出来るです。ですから、私はここで宅祭なんかをする時には、せめて御宅祭をする時ぐらいは 真底から神さまを奉る稽古をしなさいと云うんですよ、沢山のお供えが集まる、だから椛目の人達は全部それこそリヤカ―引いてでもって来ますよね、今里あたりから自動車でもって来ます、自分の物としないのです、自分がお供えしたからといって自分の物とせん、せめて、お宅祭でも謝恩祭でもするときには真底からです、神様が集めて下さった物だからというので、もうそれを教会にお供えいたします。そういう意味合いで私は謝恩祭は、本当に有難い事だと思いますね、そういう稽古をです、本当は、日々して頂いて良いのですよ。そして成程神様が限りなく下さる力、働き というものを体験していくという事がです、いよいよ神様はお間違いないなあという、神様を信ずる力が生れてくるのです。
 私共は、どうでも言うとおりにならせていただく稽古をさせてもらわなきゃいけません。少しづつでもいいから、その稽古をなされていかなきゃいけません。そこに神様が必ず絶対与えて下さるんだという私は事を信じれる力、これが素晴らしいのです。
今日はその力を受けていく、その力を受けなければなりません、ためには、力を受けていく他にも、沢山御座いましょうけれども私、感じます、こういう事によって力を受けていく、ですからほんとに例えば朝なら朝参りをするといえば眠か、と云うぐらいの事では、本当の力は受けられるはずは無いと思いますね、
そういうところから自分の云いたい放題のことを云うような事もです、私は自分の力が養われるとは思われません。自分を抑制していく、自然との対決によって力を受けていく、というように様々な力を受けさせて頂くためにはね、もうひとつお互いが貧欲にならなければいけません。大阪の言葉でがめついと申します。私は思うんです、ね、徳を受ける事ならば、力を受ける事ならばです、人から笑われるような事は問題ではないと思います。がめつい人の事を、あの人はいつも がさっとう と、本当に汚い、本当にがめつい奴じゃと 悪口云われるぐらいのことじゃない、はまっていく事の喜びというものは。ですからがめつくいくのですよ、やはり信心させて頂くなら、そういう信心に力を頂く為のがめつさを身に付けていかなければ駄目です。だからあお金をそういうように貯めていく人の事を、守銭奴と申します、私共はですね、徳の盲者にならなければなりません、徳の守銭奴にならないけません。徳を 力を受けていかれるなら人から笑われるぐらい、問題じゃない、というようなです、私は願いというか、意欲というものを持たなければ、本当の力は養われてはいけないと思います。力を受けるという事は、神様を信ずる力です。そこには神様がまた、私共を信じて下さる働き、というものが始まってくるのです。                どうぞ